りんこうや

少々年季の入った自転車乗りの独り言

俺の自転車スタイル:インストラクター

そんな時、大学の後輩が連絡をしてきた。大学時代の提携ショップが、初心者向けのインストラクターを探しているのだという。

そのショップのオーナーは、俺がMTB、ロード、ランドナーの三頭使いだということを知っているので、大学の後輩に連絡の仲介を依頼してきたらしい。さらに言うならば、ショップに入り浸っている後輩から、俺がぷー太郎だということも聞いたらしい。

そろそろランドナーも廃れ始めてきており、世の中、かろうじて生き残ったMTBロードバイク(この頃からだ、ロードレーサーロードバイクと呼ばれ始めたのは)がメインの商品になった。

で、ショップとしては、バブル崩壊で客単価が下がってしまい初心者を開拓したいのだけれど、なかなか少人数のショップでは店を休業にしない限り初心者をツーリングに連れて行ったりするスタッフを確保できないので、太郎さん、なんとかお願いできないだろうか、ということなのだ。

もちろん、異論はない。こうして俺は、月数回、初心者相手のインストラクターを引き受けることになった。それこそ、自転車の乗り方(跨ぎ方から降り方まで)、変速、ブレーキング、ペダリング、そういった基礎を教えていった。

ツーリング同伴では、参加者が5名を超す場合一人で初心者5名の相手はできない。そこで、そういう時は次郎にも手伝ってもらった。ショップは快く次郎のサポートを承諾してくれ、次郎にもバイト代を出すと言ってくれた。

ルート選定は、大学時代の練習コースが役にたった。時折、大学の後輩に出くわしたが、たまに彼らもペダリングのアドバイスを送ったりしてくれたので、俺のツーリングは好評だった。特にMTBのコースは好評だった。俺が遭難したコースは避けたけど。

次郎が、一つの提案をしてくれた。家業自体は全く異分野なのだが、子会社を作って、組織としていろんなことをしないかと言ってくれた。

自転車インストラクターも、ショップと弟の会社の子会社との契約にし、俺がそこから派遣される形にしてくれた。姉の事業も、その子会社の一事業部という形にして、姉の信用を高めることで契約を取りやすくしてくれた。弟は、経営の才能が豊かだった。

ただ、姉の仕事はそれなりの規模の事業になりうるが、俺のインストラクター家業は、細々としたものだ。弟がどういうからくりをしてくれたのかは知らないが、社会保険を弟の会社が持ってくれることになったのは大きかった。

ただ、俺が姉と弟のお荷物になっているんじゃないかという心苦しさがあった。

俺の自転車スタイル:姉と弟

バブルの後遺症は、これだけではなかった。

姉の会社が、もっと大手の企業に買収された。姉はモデルの仕事は完全に失い、普通のOLになった。だが、姉の部署の閉鎖も決まり、姉は会社を去らざるを得なくなった。のちに、その大手の会社は外資に買収された。

俺の倉庫会社は、もっと悲惨だった。倒産した。もともと中小企業だった倉庫会社は、バブル崩壊後の混乱を乗り切る体力がなかった。

俺は、姉と2人で慰めあった。

姉は賢かった。モデルをしながら、実は、カメラマンから技術を習っていたのだ。おりしも、インターネットが広まりつつある時代だった。姉は、写真をつかったウェブデザインという分野に打って出た。まだ黎明期の業界、早い者勝ちだ。姉は、そういう時流を見る目に優れていた。

いつも、俺は取り残される。こどもだと思っていた次郎が、盛んに、家業に入ってくれと声をかけてくれた。次郎なりに俺のことを心配してくれていた。

俺はそれを断り、バイトで糊口をしのいだ。ただ、自転車には乗り続けた。次郎もそれには時々付き合ってくれた。が、義男も浩二も、自転車を続ける環境にはなかった。

ねぐらは、相変わらず姉の部屋に居候だ。近所には、夫婦だと思われていたようだ。姉は保守的な面もあるのだが、弟である俺や次郎に対しては、かなりあけすけになる。平気で腕を組んできたりする。それで、夫婦だと思われたのだろう。

次郎は、駆け出しの経営者。母親が会長としてにらみを利かせてはいるが、いろいろ難しいことに出くわすと、すぐに俺らの部屋=姉の部屋に、地元の酒をもってやってきた。俺らは、経営のことはわからない。アドバイスもできない。一杯やりながら次郎のいうことをただ聞いているだけだ。若い経営者、泣き言を言ったり愚痴をこぼす相手は、俺らしかいない。家を継いでくれた俺らの役目は、次郎をこうやって支えるだけだった。

俺の自転車スタイル:バブル崩壊

楽しかった。親戚や、気の置けない仲間たちと、好きな自転車に乗りまくる、こんな楽しいことがあっていいものか!と思っていた。

だが、それは長続きするものではないのかもしれない。

バブルが崩壊した。

理香子の会社がまず打撃を受けた。モデル料代わりの手当がなくなり、俺のモデル料も減っていき、やがて、モデルの依頼自体が少なくなっていった。人員削減で、社内の撮影班を整理して、業務は外注しだしたらしい。

もちろん、スポンサー契約も打ち切りになった。

看護婦の彼女は、実家の家業を手伝うことになり、病院を辞めた。彼女の地元は、かなりの遠方だ。結局、俺らは別れた。あとになって、婿を取って家業を続けていると聞いた。

俺の倉庫会社も、業績が傾きだした。物流部門の売り上げが相当打撃をうけたらしい。

義男の会社はそれほど影響を受けなかったとのことだが、ボーナスはずいぶん減ったらしい。次郎は、大学院進学を決めていたのでそれほど深刻ではなかったのが救いだ。

そんな時、父親が死んだ。健康そうに思えたのだが、原因不明の心筋梗塞だった。俺と次郎にとっての実父、理香子にとっては継父だ。一応、家業はある。母親がとりあえず社長についたが、最終的に誰が跡を継ぐのか、という話になった。

俺は長男だが、もともと両親と折り合いが悪く、自分から降りた。母親は、理香子に継いでほしそうだったが、理香子にとっては継父のことであり、継ぐ義理はないと言った。残るは、大学院生の次郎だけだった。次郎は、親とうまくやっていた。もともと、家業と次郎の専攻は近い分野で、ゆくゆくは次郎は家業を継いでもいいと言ってはいた。だが、家を継ぐのは長男の俺だと思っていたらしい。そりゃそうだろう。

姉弟で話し合った。理香子と俺は、次郎が家と家業を継いでくれるのであれば、実家の一切の財産相続を放棄することにした。法律のややこしい話はあるのだろうが、次郎に全部任せるということだ。幸いにして、家業に借金はなかった。

バブル崩壊は、俺ら家族だけでなく、チームにも影響を及ぼした。

スポンサーの撤退だけでなく、自転車イベントの減少だ。

やがて、海外事業が好調を維持していた(らしい)浩二の会社から、彼は海外転勤を言い渡された。義男も、北海道に転勤になった。

チームは解散を決めた。

バブル崩壊は、俺ら市井の市民のささやかな楽しみすら奪った。

 

俺の自転車スタイル:チーム活動

そろそろ、登場人物に名前を付けないといけない。書いていてこんがらがってくる。

仮名だが、姉:理香子、俺:太郎、弟:次郎、義理従兄:義男 としよう。

そして、俺の友は 浩二 としよう。

 

さて、ロードチームといっても、当時、草レースとはいえそんなに数があったわけではない。今でこそ、ロードレースやクリテリウムエンデューロヒルクライムなど、様々なレースが開催されているが、当時は、数は本当に限られていた。

そんな状況で、俺らは全国あちこちでかけていった。ロードバイク対象のレースだったら、何でも出た。

エースは次郎だ。多くの場合、俺と義男が曳いた。次郎を勝たせるために。もともとスプリント力のない俺だったが、筋力がついたことで、平地での巡航が持つようになってきた。体重も極端に絞らずに、上半身と下半身の筋力のバランスを心掛けるようになってくると、スプリント力もだんだん増していった。

ロードレースは、クライマーには不利だと思う。日本のコースは、ヒルクライム以外では短距離の周回が多く、クライマーが本領を発揮する機会が少ない。そういう意味では義男には不利だったのだが、彼は、クライマーからパンチャーへと変容していった。俺は、いわゆるルーラーへと変容した。

そして、俺の友の浩二が加入した。彼は、大学卒業後は全く自転車に乗らず、企業の経理部で仕事をしていた。俺が誘った。浩二は、むしろコーチだった。次郎を徹底的に鍛え上げた。もちろん、自分でも走るようになった。才能があったんだろう、次郎に次ぐオールラウンダーだ。

レースがないときは、サイクルフェスティバルを手伝ったりもした。看護婦の彼女や義男の妹(祥子)も手伝いに来るようになった。

俺の自転車スタイル:スポンサー

俺ら姉弟の写真が、姉の会社の重役の目に留まった。それがきっかけで、姉の会社の関連会社がチームのスポンサーについてくれることになったのだ。

もちろん、わずかながらの資金提供だ。その代わり、会社のロゴをどこかに入れるという契約だった。それでも、貧乏チームには大きなインパクトだ。

俺らはプロではなく、単なる草レースチームだ。そんなチームなのに、わずかとはいえ資金提供してくれるなんて、まさにバブル経済だ。

姉の会社がスポンサーについてくれたことで、もう一ついいことがあった。倉庫会社が、俺を正社員として雇ってくれることになったのだ。もともと、姉が口をきいてくれただけあって、姉の会社と大きい取引をしていた。

荷物係は変わることがなかったが、俺と同じようなアルバイトが数名、下についた。俺は、その区画のチームリーダーになった。

会社には、モデルを続けるということの便宜も図ってもらった。

義理従兄も弟も、我がことのように喜んでくれた。

さて、スポンサーからは、チーム名を決めるように言われた。もちろん、ないわけじゃなかったが、もっといいチーム名を求められた。

それまでは、姉の名前〇〇子からとって、〇〇子's Teamという名称だった。しかし、〇〇が日本的過ぎたし、スポンサーにとっては社員の名前だし、そしてあまり語呂がよくないので、チーム名を改めるように、ということだった。

そこで、英語のチーム名にした。これが、実はスポンサーからのプレゼントでもあったのだ。そのチーム名で、チームジャージをつくって提供してくれた。もちろん、会社名も入れて。

バブル経済の末期、まだ虚構の余裕を誰もが謳歌していた時代だった。

俺の自転車スタイル:軍資金

俺は倉庫会社で、荷物の出し入れ係をずっとしていた。1年たったある日、あまりにも暑いので、制服の上着を脱いで、タイトフィットのタンクトップで仕事をしていた。ちょうどその時、姉の会社の広告の撮影係の人が、倉庫に預けてある服をチェックしに来た。

男性衣料のモデルをやらないかと声をかけられた。どうやら、顔を出すとモデル料が上がるらしいが、予算の制約で、顔を出せるモデルさんを雇えないということで、たまたま倉庫で目に入った俺にモデルをやらすことになったということだ。

倉庫会社にはよくしてもらったが、アルバイト扱いなので、給料は安かった。モデル料という臨時収入はありがたい。

実は、俺には彼女もできていた。入院していた病院には定期的に通院していて、そこの看護婦(当時は、看護師という言い方は一般的ではなかった)と付き合うようになっていた。彼女の方が収入は上だが、デート代は男の俺が出さなきゃいけない。彼女は俺の立場を理解してくれていたが、それでも、このモデル料はありがたかった。

もちろん、デート代だけに使うわけではない。自転車は金がかかる。整備は極力自分たちでしていたが、どうしても手に負えない整備はショップに出さざるを得ないし、消耗品や壊れたパーツ代、遠征費用なども必要だった。弟は親から仕送りを受けていたし、義理従兄は社会人で給料もそこそこもらっていたが、俺は姉が資金援助してくれていた。だが、姉に頼るわけにはいかなかった。

月数回の撮影があった。撮影された写真は、広告だけに使われるわけではなかった。商品開発のための資料にも使われた。1回の撮影で、数万円になった。

撮影は、たいてい夜行われた。姉が、平均の倍くらいの給料といっていた理由が分かった。姉は社員なので、残業手当や撮影手当が出ていたらしい。

ある日、俺が姉の弟だということが知れ渡った。隠していたわけではないが、男性商品の撮影と女性商品の撮影はまったく被ることがなかったので、あえて言わなかっただけだ。撮影係の人が、2人って似ているよね、という話をしだして、それでバレた。

その後、姉と「共演」することもあった。さらに、弟を呼んで、姉弟ファッションみたいな企画の撮影もあった。実はこれが、ノッポーズにとって大きな出来事だった。

 

 

俺の自転車スタイル:変容

俺の身体も、少しずつ戻ってきた。仕事のおかげで、身体は絞れてきた。弟や義理従兄にはまだ追いつけないが、完全に置いていかれることも少なくなってきた。

身体が戻ってきたのと同時に、身体そのものが変わっていった。

仕事で身体が絞れてきたのと同時に、筋肉がついてきたのだ。自分では、なかなか気づかなかったのだが、最初にそれに気づいたのは姉だった。

ある日、姉が上半身裸になれといってきた。姉が言った。筋肉すごいよ、と。

そうか、これだったのか。体重がなかなか減らなかった理由がわかってきた。もともと、俺はやせ型だった。大学に入って、上半身の筋肉はほとんどついていなかった。が、倉庫での仕事は完全な力仕事で、上半身をよく使う。その上で、モデルもやっている姉の勧めでプロテインを摂取しはじめたので、上半身の筋肉がついてきたのだ。

一つの謎も解けた。クライミングが遅くなったと思っていたのだ。脚は戻りつつあるのに登れないのは、まだ余計な脂肪が邪魔しているからだと思っていた。見た目には脂肪はないように思えたが、内臓脂肪とやらがべったりしているのだと思っていた。しかしどうやら、筋肉がついてきたようだった。

ちょっと戸惑いもした。登れない。悩み始めた。登れないクライマーなんて。

また、姉が助けてくれた。無理して登らなくていい、曳け、と。

そうか、そういう手があったか。俺は、クライマーにこだわることをやめにした。なにか吹っ切れた気がした。

そして、この上半身の筋肉は、もう一つ俺に大事なものをもたらしてくれた。それは、資金だった。