りんこうや

少々年季の入った自転車乗りの独り言

俺の自転車スタイル:退職届

翌朝、真っ赤な目で会社に行き、上司に退職届を出した。当然、事情を聴かれた。慰留もされた。

午後、上司の上司に呼び出された。また、事情を聴かれた。俺は、こういった。俺は、自転車が好きだ。でも、営業をやっている限り、ロード乗りとしての体調管理ができない、と。上司は言った。通常1年半で異動だ、あと1年で異動になる、その時には内勤にするから我慢できないか、と。

すみません、半年でこのザマです、1年は耐えれません。

上司も、その上司も、いい人たちだったと思う。二人とも、国体に出るくらいのスポーツ選手だったらしい。退職届は受理された。

姉ちゃん、目標達成したぜ。

新人に有給休暇なんてほとんどない。その週末までに、会社の独身寮を退寮し、会社のデスクやらをきれいにしなければならない。新人なので引き継ぎなんてないのが幸いだった。俺を引っ張りまわした先輩は、仕方ねーなーと言いながらも、一発殴らせろ、と、言った。目をつぶって一発くるのに備えたら、軽くデコピンされた。

とりあえず、姉の部屋に転がり込んだ。姉の部屋は1DKなのだが、DKにも寝室にもカウントされない、窓のない4畳半ほどの納戸があった。物置がわりのその部屋が、俺の寝床になった。いくら弟コンの姉とはいえ、家賃払えと言ってきた。退職金なんてなかったので、俺も仕事を探さなければいけない。

しばらくの間のバイト代わりだといって、その仕事は姉が探してきてくれた。姉の会社で使っている倉庫会社だった。俺の仕事はガテン系だった。オーダー通りに倉庫から荷物を出し入れし、トラックやバンに積み込む、そういう仕事だった。アパレル系の倉庫なので、フォークリフトなんかはない。すべて手作業だ。朝から晩まで動き回っていたおかげで、酒と脂っこい夕食で肥えた俺の身体は、少しずつ絞れてきた。

俺の自転車スタイル:社会人

俺は、大学を卒業後、普通の企業に入社した。なんとか足の骨折は、脚を引きずることない程度には回復したが、顔の傷はまだ少し残っていた。が、それでも採用してくれた会社にとっては、貴重な戦力だったのだろう。

バブル経済の影響だろうか。

俺は、営業に配属になった。顔に傷作ってもスポーツに励んだ体育会というキャラ設定で、先輩に引きずり回された。

営業だけあって、客先との接待が多かった。兵隊係の俺は、当然、毎日毎晩接待漬け、しかも、怪我の影響で自転車にも乗れない日々が続いたので、体重は激増してしまった。

ようやく本格的にトレーニングを再開できたのは、梅雨明けの時期だ。弟や義理従兄に、全くついていけない。筋力を戻し、心肺機能を戻し、身体を戻し、勘を戻すのに、いったいどれくらい時間がかかるんだ。

何度目かのチーム練の時、俺は泣いた。義理従兄や弟は、すぐに戻る、と言ってくれた。だが、俺はわかっていた。そう簡単には戻らない。6ヶ月のブランクはとても大きい。しかも、4月からは酒浸りだ。これからも、営業職を続けていけば、酒漬けになるのは間違いない。

姉に相談をした。姉は、一晩中何も言わず、俺の泣き言を聞いてくれた。そして俺がひとしきり話し終わると、レース後にしてくれたように、俺を抱きしめてくれた。

姉が、布団で寝ようと言い出した。子供のころみたいに、布団を並べて寝ようと。子供のころ、俺らは子供部屋で一緒に寝ていた。いつ以来だろう、姉と一緒に寝るのは。布団に入ると、俺ら姉弟には約束事があった。姉がいつも聞くのだ、明日の目標は、と。その日も同じだった。俺は答えた。そして、いつものように姉が言った。オーケー、と。

俺の自転車スタイル:ロードレースチーム

俺ら姉弟チームのエースは俺ではなかった。弟だった。弟はオールラウンダー。俺は、どちらかというとクライミングが得意だが、スプリント力はあまりない。

姉弟チームは、そんなに数は多くないものの、草レースに出ていた。当時は、もちろんチーム力ということもあったが、ほとんど個人出場の選手ばかりだった。そんな中、俺が曳いて、弟を発射させるという作戦は、草レース程度のレベルでは効果てきめんだった。

何度か優勝することができた。レースが終わると、姉は決まって俺ら兄弟を抱きしめた。姉ちゃん、恥ずかしいよ~、と言いながらも、姉コンの俺は嬉しかった。

弟が入学を決めた大学にはサイクリング部はあったのだが、ツーリング主体の活動で、弟がやりたいロードレースは、興味ある個人が個人の資格でやっているだけだった。弟は結局サイクリング部には入部せず、姉弟チームの選手としてロードレースを続けることになった。 

そんな矢先の俺の事故だった。姉は、チームのマネージャーとして優秀だ。新たに選手を加えたのだ。ただ、姉弟チームなので、第三者が加入しても居心地が悪いのは間違いない。姉は、賢かった。親戚を引っ張ってきた。親戚、といっても、兄弟の親戚ではない。姉の父方の従兄だ。俺ら兄弟から見ると、とても遠い関係なのだが、全く赤の他人、というわけではない。彼はもともと、高校まで野球をやっていた。あと2勝で甲子園というところまで行ったのだが、わずかに届かなかった。1番センターで、運動神経はバツグン。高校を卒業すると企業のノンプロチームで野球を続けていたが、先ごろ引退してその企業のサラリーマンになった。そこを、姉が引っ張ってきた。

彼は、完全なクライマー。野球選手と言っても長身細身で足が速く、自転車でもすいすい坂を登って行った。

俺は身長180センチ、弟は185センチ、義理従兄に至っては188センチ。きわめて大型選手がそろったチームが出来上がった。姉もモデルをやっているだけあって女性にしては背が高く、自称170センチ。草レースで出会う連中からは、ノッポーズと呼ばれた。

義理従兄はノンプロの野球チームでキャプテンを務めていただけあって、リーダーシップがあった。それ以降、姉弟チームは義理従兄を中心に回っていった。

少し先の話になるが、もう1人選手が加入した。俺のライバルであり友でもあり命の恩人でもある、彼だ。弟はすでに俺よりもはるか上のレベルの選手に成長しており、友の加入で弟は大いに刺激を受けた。友は大学卒業後、多くの仲間がそうであるように一般企業に就職した。自転車選手としての道は歩まず、俺らのチームに入って草レースを楽しむライダーになった。だが、彼が海外遠征で身に着けたノウハウや、彼の大学の自転車競技部のトレーニング方法などを俺の弟に伝授してくれた。エースは弟のままだった。

友は、俺の事故以来、姉や弟と親しくなっていた。親戚ではないが、居心地悪いということはなかった。完全に余談になるが、友は、かなり遠いが、数年後、俺らの親戚になることになった。義理従兄の妹、つまり俺らの義理従妹にあたる女性と結婚することになったからだ。

俺の自転車スタイル:姉

俺は、もともと姉コンの気がある。弟は兄コンだ。つまり、男兄弟はみんな直上の姉兄にベッタリだ。

姉は姉で、弟コンだ。

俺が大学で自転車を始めたら、弟も自転車に乗り出した。ロードだ。実は、姉と弟2人は父親が違う。姉の父親と姉弟の母親は、姉が生まれるとすぐに離婚し、母が姉を引き取って育てていた。そのあとで俺らの父親と出会い、再婚した。姉は俺より5つ上、弟は4つ下だ。俺は親と折り合いが悪く大学に入るとすぐに家を出たので、金のかかる自転車はバイトで工面した。弟の自転車は、親が出した。まだ中坊だったし。

で、俺の自転車だが、バイト代だけでは賄いきれない。短大を出てもう社会人になっていた姉が資金援助してくれた。頭が上がらないのは、こういうことでもある。

俺の大学にはサイクリング部があったが、弟の中学、高校には自転車部がなかった。兄コンの弟には仲間がいなかったのだ。

いや、いるにはいた。弟は地元のショップのグループに入れてもらったのだが、そのグループはレースではなく、ツーリングメインだった。弟は、大人に混じってメキメキ頭角を現し、地元の自転車コミュニティではちょっとした有名人になった。

姉が動いた。姉が代表兼マネージャーとして、俺を入れて姉弟チームをつくったのだ。俺は、大学チームではロード班を離れてサイクリング班とMTB班掛け持ちでレースではMTBに専念、姉弟チームではロード選手として活動することになった。

姉は、弟の俺が言うのもナンだが、美人だ。就職先がアパレル系の会社だったので、専属ではあったが、広告などのモデルをしていた。そのおかげで給料は平均の倍くらいと言っていた。そして、惜しみなくその余剰分を俺ら弟2人につぎ込んだ。

ただ、俺の大学の所在地と地元は、120キロほどの距離だった。姉の会社のある市は、大学からさほど離れてはいなかった。姉は、俺ら弟の面倒をよく見てくれた。

俺の自転車スタイル:別れ

俺が病院に担ぎ込まれて手当を受けているころ、彼女も病院にすっ飛んできた。俺は、顔面の右側に傷を負ったが、左ほほを彼女にびんたされた。そして、さようなら、といって彼女はすぐに病院を去っていった。

数日後、友が寝起きする大学寮に、彼女の部屋に置いてあった俺の私物が送られてきた。

さて、彼女が俺の左ほほをびんたしたのを見ていた医師や看護婦さんたちは、かなり慌てたようだった。そりゃそうだろう。なにせ、反対側とはいえ、縫合したばかりなのだから。

医師と看護婦は、かぶせたばかりのガーゼを外し、縫合した傷口の確認をした。よかったわねー、傷は開いたりしてないよ、彼女、手加減してびんたしたんじゃないの、と、看護婦は慰めてくれた。

警察がやってきた。制服の強面の警官1名、若手の警官1名の都合2名だった。警察の手を煩わせなかったということで、勝手に死にそうになっただけの事件ということになった。厳重注意ということだが、当然ながら、大学には通知するとのことを言われた。友の大学とは別なので、人命救助の感謝状出してくれと言ったら、強面の警官に、バカヤローと叱られた。

翌日、大学から学生生活課とかなんとかの職員がやってきた。サイクリング部の公式の活動かどうか、ということを聞かれた。部は冬季休養期間に入っていたので、個人活動だということで、部に対してはおとがめなし、個人に対しては、口頭で厳重注意となった。

彼女に電話したが、すぐに切られた。

もう成人していたので、警察からも大学からも、親には連絡がいかなかったみたいだ。俺も、親には何も言わなかった。親には言わなかったが、看護婦さんの勧めで、姉には連絡した。俺のアパートから、着替えとか持ってきてくれた。姉が身の回りの世話をしてくれた。それ以来、今に至っても姉には頭が上がらない。姉が弟に連絡したのか、弟も見舞いに来た。帰省前に退院できたので、年末年始は実家に帰ったが、さすがに親は、松葉づえついて顔の右側が絆創膏だらけの俺の姿を見てびっくりしたようだった。

俺の自転車スタイル:生還

俺が遭難して身動き取れずにいたころ、友は俺の彼女のアパートを訪ねた。約束の時間だった。彼女は料理学校に通う生徒で、彼女の試作品を俺と友とで批評する、という名目で集まるはずだった。

が、俺が帰ってこない。

友は、俺の行き先を知っている。こんな時間まで帰ってこないのはおかしい、と思ったと、後で教えてくれた。

彼は、俺の大学のサイクリング部の仲間、そして自分の大学の自転車競技部の仲間に声をかけ、捜索隊を出してくれた。

そのころ俺は、手だけで這いずって、大きな木を背に座っていた。滑落した斜面を見ると、自分より10mほど上にマシンが、さらにそのすぐ上に獣道らしき跡が見える。雪の上に、滑落した後がくっきり残っていた。月明りがこんなに明るいものだとは知らなかった。

寒い、夜明けはもっと寒いのかな、マジ、俺、ここで死ぬか。

その時、上から、おーい、見つけたぞーと、声が聞こえた。

友が出してくれた捜索隊だ。彼の大学の自転車競技部に元ワンダーフォーゲル部というのがいて、彼が知識を持っていたのだろう、なんとか俺を引きずり上げてくれた。雪で、自転車が通った跡や滑落の跡を見つけるのは容易だったらしい。

添木をその場で作り、なんとか生還することができた。林道終点から県道まで彼らにかわるがわるおんぶされ、救急車が呼ばれた。

左足首骨折、腿の傷は20針近く縫合。右足は打撲で済んだ。傷はそれだけではなかった。自分では気づかなかったが、顔面にも傷を何か所か負っていたのだった。当直の医師が皮膚科で細かく縫合してくれたが、傷跡は残るという。顔面は、都合15針縫合した。でもその医師は、整形外科が当直でなくてよかったな、整形外科だったら5針だぞ、俺は皮膚科だから細かく縫って15針だ、と慰めてくれた。

俺の自転車スタイル:滑落

こうして、ロードレーサーMTBランドナーの3種類の自転車が俺の相棒になった。

大学4年の冬、やめときゃいいのに、雪が降る前にと、あまり標高の高くない里山にでかけた。相棒は、ランドナーを改造したパスハンターだ。ライバルの友を誘ったのだが、彼はバイトが忙しいということで、単独走になった。夜、俺の彼女と3人でメシを食おう、と約束をして俺は出かけて行った。

天気予報では、その日は晴れのはずだった。だが、いくら低いとはいえ、山の天気は変わりやすい。雪が降ってきたのだ。

俺は、道に迷ってしまった。何度か走ったことのある道なので、油断していた。林道ではないが、かなり踏み後のしっかりしているシングルトラックだ。だが、雪で道を見失った。

そして、やってはいけないことをやってしまった。本道と見間違えた獣道を、沢の方に下ってしまったのだ。そして、滑落した。

動けなくなった。陽のあるうちに帰ってくるつもりだったので、軽装だったことも失敗だった。相棒のパスハンターは、フレームこそクロモリなので無事だったが、明らかにメカ部分は無残な姿になり、ホイールはひしゃげてしまった。岩にヒットしたのだろう。

体のあちこちが痛む。1時間ほど休むと、なんとか身体を揺らせるようにはなったが、滑落した沢を登ることなんてできない。左足首には激痛が走る。腿からは出血。右足は打撲だとは思うが、まともに動かない。

おそらく、林道の終点まで1キロもない場所だと思うが、とてもではないが動けない。

やがて、冬の早い日没時間を迎えた。雪はやんだが、気温が下がってきた。滑落した沢は、枯れ沢だった。あまり岩はなかったが、いかんせん急斜面だ。ああ、だめかな。死ぬのかな。こんなところで死ぬのは恥ずかしいな。